勝俣美秋の和楽日記

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身体性想像力。

先日、芸能界をお辞めになられた方が記者会見の際、「セップク」とか「ハラヲキル」という言葉を使っていた。
その後の報道で、本人の言っていた事は違っていた為、結局、腹を切らねばならない結果になってしまったのだが、関係者によると、「本人がセップクする可能性はない。」のだそうな。

切腹とは、腹を切って死ぬ事である。
そのむかし、主君に対しての忠誠を誓い、腹の中には何もない、という身の潔白を示す為に、文字通り命を持って示す行為であったり、武士に課した死罪の一つではあったりした。

腹を切るとは、さぞ痛いだろう。武士道とは死ぬ事と見つけたり、なんてかっこよくはいかないだろう。

今、話題にしている件に関しては、セップクをしなければならないか、そうではないかを知っているのは、当の本人なのに、セップクという言葉を使えるという事は、パフォーマンスであり、ハラヲキルというアクションを、言葉だけで終わらせる事が前提で言っているという事がわかった。

その事を身体性とう側面からみると、この方は、身体性想像力がある方だと思う。
殴られれば痛く、血が出るだろうし、腹を切れば痛いし、死ぬという事を知っている、身体性想像力のある方だ。

もうひとつ、「大阪・一斗缶バラバラ事件」。
なぜ人を殺した上にバラバラするのか。

僕が考えるに、そこまでしないと、人間の身体についてのリアリティーが感じられないのではなかろうか。
現代は、身体性が喪失した時代で、以前、ベケットが発表した作品の中にも、身体性の喪失した時代を予見するような作品があったが、まさに現代がその時代ではないだろうか。

直接人と触れ合わずに、また触れ合う事ができにくいシステムになっており、しかし、部屋の中ではコンピューターを通じ、インターネットやらメールやらチャットやら、なにやらで、世界と通じる事ができる。
そこには、感情のぶつかりあいだとか、それが高じての殴り合いの喧嘩だとか、匂いだとか、肌と肌が触れ合うだとかがない。

しかし、人間として生まれてきたからには、身体という事をどうしても無視して生きるわけにはいかない。
その反動として、バラバラにするまでしないと、身体性というのが感じられず、そこまでしても、感じられなかったりするので、わざわざ人の見につく所に置いているのではないだろうかと想像する。
自分とは、他の事物に対しての否定であるが、その事自体も、事物との関係性の中でしかできず、その中で身体性の想像力もできて来るものではないかと思う。

自分という存在=身体のリアリティーがもてないという、自分に対しての身体性想像力の欠如。
殴れば痛く血も出てそれが過ぎると死んでしまうという、他者に対しての身体性想像力の欠如。

ザンコクとかオソロシイとかの現象的な一般論ではなく、バラバラにするというアクションは、身体性の想像力の欠如につながるのではないか、と思っている。

人間は集団と身体からは、逃れられない。

ならば、劇団という集団で、身体性を重んじる演劇で、とことんまで、それを追究してみたいと思っている次第である。

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  1. 2011/09/11(日) 18:29:45|
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